熈代勝覧

「熈代勝覧」

『熈代勝覧』は、文化2年(1805年)頃の日本橋から今川橋までの大通り(現在の中央通り)を東側から俯瞰し、江戸時代の町人文化を克明に描いた貴重な絵巻物(作者不明)です。この絵巻物の原画はベルリン国立アジア美術館に所蔵されています。この絵巻物は、紙本著色の一巻本で、縦43cm、全長1230cmあり、題字の書の部分が126cm、図の部分が1055cmあります。絵巻物の金地題簽に「熈代勝覧 天」とあることから、対の「地」の巻や、あるいは「人」の巻の存在が想定されるが、同美術館に寄託されたとき、既にこの一巻のみだったようです。

発見

『熈代勝覧』とは、「熈(かがや)ける御代の勝(すぐ)れたる景観」という意味です。この絵巻物は1999年にベルリン東洋美術館において発見されました。1995年、ベルリン自由大学生物学教授であり中国美術収集家のハンス・ヨアヒム・キュステルと妻インゲが親戚宅の屋根裏で発見し、自身が会員として所属するベルリン東洋美術館に他の収集品と共に寄託しました。これ以前の経緯は全く不明です。2000年ミレニアムに向けて、リニューアル・オープンの作品を探しているとき、新たに雇用された日本美術の学芸員がこの絵巻物をはじめて日本美術と鑑定し、さらにその内容は日本橋通り(神田今川橋から日本橋まで)を克明に描いた「日本橋繁盛絵巻」とでもいう絵巻物であると認知されました。その後、日本の学習院大学教授の小林忠氏が鑑定し、2006年1月に日本でも展示紹介されました。

制作目的

絵には後から金箔で地名が付されていますが、室町一丁目で東に入る高砂新道を「浮世小路」、同三丁目で東に入る浮世小路を「胡坐店」と取り違え、(本)小田原町を「小田町」とするなど、誤りが多いようです。もし金箔を付したのが注文主であるとすれば、この界隈に詳しくない人物であるとみられます。題字に署名がなく、絵師に至っては手がかりすら残されていない所をみると、武家や豪商など貴人の注文によって制作された絵とするのが妥当かもしれません。画題の「熈代勝覧」は「熈(かがや)ける御代の勝(すぐ)れたる景観」の意であり、また関防印には「英傑之餘事文章之急務」とあることから、当時の江戸の繁栄を後世に残す目的で制作されたと考えられます。

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作品紹介

江戸の町は家康が天正18年(1590)に江戸に入り、町割を策定したことに始まります。即ち、江戸城を中心に町人地を造成しました。この町人地は、平安京の街区を模倣して、方一町(60間四方)の区画による町割で、慶長8年(1603)に架橋された日本橋を中心に南北が45度振れていますが、整然とした区画の街並みが作られました。また、日本橋を起点に五街道の整備がなされました。

発見後~現在

発見後は中国美術として保管されていましたが、1999年キュステルが死去し、遺品整理が行われた際、丁度日本ギャラリー新装のため雇われていた日本美術学芸員カアン・トリンが日本の作品と確認しました。ビルバルト・ファイト館長がケルン大学日本学教授フランジスカ・エームケを介し、講演でケルンにいた学習院大学教授小林忠に話を持ちかけたのです。小林忠はチューリッヒリートベルク美術館・ベルリン自由大学での講演を済ませた後、同美術館に立ち寄り、調査を行いました。絵は日本ギャラリー新装の目玉として同美術館で初公開された後、2003年1月5日から2月23日まで江戸東京博物館の「江戸開府400年博物館10周年記念 - 大江戸八百八町展」、2006年1月7日から2月12日まで三井記念美術館の「開館記念特別展II - 日本橋絵巻展」に展示され、二度の里帰りを果たしました。その後、名橋「日本橋」保存会及び日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会によって江戸東京博物館監修の下、1.4倍の複製が制作されました。複製は詳細な解説とともに東京メトロ三越前駅地下コンコースに設置され、2009年11月30日除幕されました。絵画は現在も旧ベルリン東洋美術館、現ベルリン国立アジア美術館がこれを所蔵しています。

描かれている内容

絵巻物の題字に、『熈代勝覧』、すなわち「熈(かがや)ける御代の勝(すぐ)れたる景観」を描くとあり、神田今川橋から日本橋までのおよそ七町(760m)の日本橋通りある88軒の問屋、店、および行き交う男1,439人、女200、子ども32人、犬20匹、馬13頭、牛4頭、猿1匹、鷹2羽、ならびに屋号や商標が書かれた暖簾、看板、旗、などが克明に描かれています。描かれている町は絵の右、即ち北から日本橋本銀町二丁目(通白銀町)、日本橋本石町二丁目(通石町)、本石町十軒店(十軒店)、日本橋本町二丁目(通本町)、日本橋室町三丁目、同二丁目、同一丁目です。日本橋通沿いは「通」の冠称を付けて俗称されていました。昭和初期の町名整理を経て、現在では全体が日本橋室町一~四丁目に含まれます。

日本の歴史好きな貴方へ

描かれている店舗

絵巻物には沿道にある88軒の問屋や店に加え、行き交う1,671人、犬20匹、馬13頭、牛4頭、猿1匹、鷹2羽ならびに屋号や商標が書かれた暖簾、看板、旗、などが克明に描かれています。なお、1806年の「丙寅(ひのえとら)の大火」で建物の多くは焼失したとされていて、その直前の貴重な記録といえます。絵には88軒の問屋が登場しますが、暖簾は屋号が判別できるほど精緻に描かれており、当時通り西側に出店していた店舖の一覧を知ることができます。文政7年(1824年)2月の『江戸買物獨案内』にはこのうち4分の1の店舖が掲載されていますが、住所が食い違う所も多く、入れ替わりの激しさを偲ばせます。町屋は庇の有無、土蔵と白漆喰の違いなど外見上の特徴が細かく描き分けられていますが、類似作である『江戸風俗図巻』のように店内部を透視するように描くことはせず、あくまで写実に徹しています。正規の店舖のほか、木戸番が非正規に営む商番屋が描かれている点も注目されます。町屋の間から裏店に至る路地の存在が示されていることも特徴です。有名店舖も多数登場しています。現在も三越として残る呉服店越後屋は道から少し入った駿河町に本店を構えますが、当地の定番として欠かせなかったためか全体が余す所なく描かれていて、通り沿いにも系列店や蔵を多数構えています。現在も室町で打刃物問屋として営業を続ける木屋は室町二丁目に4店舖並んで見えますが、その内木屋幸七は工事中で、「普請之内 蔵ニ而商売仕候」の札を掲げています。大手書肆須原屋も善五郎と市兵衛の2店舗が見えます。

画家

画家の署名落款はありません。しかし巻頭題字「熈代勝覧」には「左潤之印」「東洲」の印が捺されていて、市井の書家で当時著名な佐野東洲と推測されています。もしくは、この佐野東洲の婿養子であった戯作者の山東京山の兄の、やはり戯作者として有名な山東京伝ではないかと小林忠教授、小澤弘東京都江戸東京博物館教授らが推定しています。山東京伝は超一流の戯作者でしたが、画号を北尾政演と名乗る絵師でもあり、自著のほか多くの黄表紙に絵筆を執っていました。奇しくも日枝神社に同じく文化2年佐野東洲によって揮毫された「山王大権現」の扁額が残されていますが、こちらには「東洲左潤拜書」の署名があります。