石山寺縁起絵巻

石山寺縁起絵巻

滋賀県大津市にある、西国巡礼十三番札所で紫式部ゆかりの古刹、『石山寺(いしやまでら)』。その草創と本尊の霊験譚を描いた重要文化財・『寺社縁起絵巻』。石山寺の創建と、本尊の観世音菩薩の霊験あらたかな功徳の数々を描き表した『寺社縁起絵巻』。全7巻、計33段で、石山寺蔵、重要文化財。1巻から3巻は、正中年間頃の鎌倉時代末に、『春日権現験記絵』の作者・高階隆兼率いる高階派の工房で描かれたと見られます。しかし、紆余曲折を経て全7巻が完成したのは、500年近くたった1805年頃です。紫式部が源氏物語を書いた場所としても知られる大津市の石山寺は、近江を代表する名刹です。14世紀前半に成立した『石山寺縁起絵巻』は、寺の創建の由来と、本尊である如意輪観音にちなむ霊験説話を集成したもので、国の重要文化財に指定されています。 石山寺の歴史や信仰だけでなく、当時の貴族や庶民の生活を窺える点でも貴重な史料であり、教科書などの図版としてもしばしば用いられます。

石山寺と紫式部

石山寺に参籠し、はるか湖水に写る月影を見て、紫式部は『源氏物語』の構想を感得したと伝えられています。石山寺の縁起を記したものは、この絵巻以前にも数種類知られていますが、どれも断片的で、本絵巻がもっとも体系的に最多の逸話を収録しています。段数の33という数字は、法華経に観音菩薩はあまねく衆生を救うため33の姿に変身する、と説かれていることに由します。

絵巻物についてもっと知りたい方必見

街道をゆく馬借

近江国石山寺の縁起や信仰を伝える、鎌倉時代末期成立の「石山寺縁起絵巻」に描かれた『近江坂本の馬借』。中世の内陸部交通は河川が重要な役割を果たしていて、三国湊は坂井郡金津・足羽郡北庄・府中・奥越地域と河川で結ばれ、また敦賀津は川舟座によって敦賀郡内の各所とつながりをもっていました。また若狭では、遠敷郡の北川・南川が郡内陸部から小浜津への輸送路としての機能をもっていました。中世の若狭では、古代官道のルートを踏襲する九里半街道が主要街道として利用されましたが、針畑を越えて鞍馬街道を経由する道や、名田荘を経由して長坂越えを通る道も利用されていました。一方越前では、北陸道が主要街道の位置を占めていましたが、三河から越前への浄土真宗伝播のルートとしても知られる美濃街道も大きな役割を果たしていました。これらの河川や街道には、その地の領主の収入源として、あるいは戦国大名の軍事上の必要から関が設けられました。また府中から西にのびる西街道では、運送業者である馬借が戦国期には活躍しました。この馬借は、南条郡河野・今泉の両浦に入港した船の物資運送と塩・榑の独占的販売権をもち、両浦・山内の馬借として知られています。越前の戦国大名朝倉氏は、1510年(永正7)より越前の街道の修復を国内の人びとに命じ、また敦賀郡の庄の橋(笙橋)や足羽郡の浅水金橋・北庄橋の修理を行うなど、交通路の維持管理を重要視していました。しかし、日野川の白鬼女橋と九頭竜川の高木橋はともに、軍事的な意味から舟橋でした。

各巻の内容

かつては、最初は全7巻が完備されていましたが、のちに失われていった巻を随時補巻していったと見られていました。しかし、当時の記録類から、当初全7巻の詞書の原文と、第1~3巻までの絵しか完成していなかったと推測されます。そして、40年ほど経って洞院公賢の子で石山寺座主・杲守が、既に複数存在していた詞書を校合し、さらに絵巻物に相応しく和文化した詞書を付して、現在の第1~3巻を完成させ、その後はその詞書を元に絵が追加されたとするのが通説になっています。

第4巻

第4巻は、詞書は三条西実隆。絵は、寺の言い伝えでは土佐光信とされていますが、絵の描き方や人物の容貌表現が大きく異なります。また、伝光信作品の中には、「鶴草紙」(京都国立博物館蔵)、「狐草紙」(個人蔵)、「白描平家物語絵巻」(京都国立博物館ほか蔵)など、本絵巻と同一筆者と見なせる作品群が伝存します。そのため、光信とは異なりますが一家を構えて、当時一流の文人貴族だった実隆と合作できるほど名声があった土佐派の有力絵師の手になると推測されます。絵師の候補として分家筋に当たる土佐行定が挙げられますが、行定には確実な基準作がなく、確定できない段階です。

第5巻

第5巻は、詞書は御子左家の冷泉為重。絵の作者は不明ですが、人物描写の共通性などから『融通念仏縁起絵巻』(清凉寺蔵)や『親鸞聖人絵伝』(石川県・願成寺蔵)、「誉田宗廟縁起絵巻」(誉田八幡宮蔵)を制作した粟田口隆光の筆とする説が有力です。

巻6,7巻

巻6,7巻は、詞書は飛鳥井雅章。絵は、谷文晁が2年がかりで完成させました。この両巻制作の背景には、好古家の側面もあった松平定信と、当時の石山寺座主で江戸中興の祖ともいうべき尊賢と好古を通じた交流があります。定信は文晁に、「一草一木たりとも文晁が私意を禁ぜられ」たといい、新図は定信自ら指導し、図様に関しては古い絵巻などから抜き出して使用しています。

日本の歴史好きな貴方へ

石山寺

さざなみが煌めく琵琶の湖水が、やがて穏やかな流れとなる瀬田川、石山寺はその西岸の伽藍山の麓の景勝地にあります。その創立は、東大寺大仏造立のための黄金の不足を愁えた聖武天皇が、ここに伽藍を建てて如意輪法を修すようにとの夢告を受け、良弁僧正を開基として開かれた寺院です。また、本尊の秘仏如意輪観音像は、聖徳太子がお伝えになった、縁結び、安産、福徳などに霊験あらたかな仏さまとして信仰を集めています。石山寺は奈良時代から観音の霊地とされ、平安時代になって観音信仰が盛んになると、朝廷や摂関貴族と結びついて高い地位を占めるとともに、多くの庶民の崇敬をも集めました。その後も、源頼朝、足利尊氏、淀君などの後援を受けるとともに、西国三十三所観音霊場として著名となり、今日まで参詣者が絶えません。また石山寺は西国三十三所の第十三番札所となり、観音信仰の霊場としても多くの参詣者を集めました。

石山寺の伝説

とくに貴族の女性の参籠が流行したらしく、紫式部が当寺で『源氏物語』を書きはじめたという伝説も、このような背景によるものでしょう。境内の本堂(国宝)は、巨大な硅灰石(天然記念物)の上に建てられています。この本堂内にある「源氏の間」は、かつて紫式部がその窓から十五夜の月を眺めたときに、霊感をうけ物語が出来上がったと伝えられます。「右少弁藤原為時の娘、上東門院の女房であった紫式部は一条天皇の叔母の選子内親王のためにと、女院から物語の創作を下命され成就を祈願するため当寺に七日間参籠した。心澄みわたり、にわかに物語の構想がまとまり、書き始めた」『石山寺縁起絵巻』には、このように記されています。

月見亭

近江八景「石山の秋月」のシンボルとなっている月見亭は、瀬田川の清流を見下ろす高台に設けられ、後白河天皇以下歴代天皇の玉座とされました。この月見亭の隣に芭蕉庵があります。俳聖松尾芭蕉は、たびたびここに仮住まいをして、多くの句を残しています。『石山の 石にたばしる あられかなあけぼのは まだむらさきに ほととぎす』瀬田川周辺には、芭蕉ゆかりの地として墓地のある義仲寺の無名庵、長期滞在した幻住庵、岩間寺などが点在します。